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英雄広場

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ハンガリーの首都、ブダペストへ行ったなら絶対に抑えておきたい観光名所のひとつは英雄広場(hosok tere)です。

アンドラーシ通りの突き当たりに位置しており、通りを臨むとセルビア大使館が見える。また、ヴァーロシュリゲットの中にあり、広場の左側にはブダペスト西洋美術館が、右側にはブダペスト現代美術館が位置している。また、ブダペストのドナウ河岸とブダ城地区およびアンドラーシ通りの一部として世界遺産に登録されています。地下にはブダペスト地下鉄1号線の英雄広場駅があります。

英雄広場の中央には聖イシュトヴァーンの王冠と大主教十字を握っているガブリエルを戴く柱がある。また、左右七つずつの像の建立場所があり、建設当初、九部族の英雄の像を右から作っていった。当時のハンガリーはオーストリア=ハンガリー帝国であったので、残りの五つの場所はハプスブルク朝の人々の像が建てられた。しかし、第二次世界大戦で像が被害を受けると、ハプスブルク朝の人々の像は現在の像に取って代られました。

左側

以下に像の置かれている人物名です。

画像左から

●イシュトヴァーン1世(997年 – 1038年):大首長・ハンガリー国王。ハンガリー王国の初代国王。997年、父ゲーザの死を受けて大首長となったイシュトヴァーンは、各地へ軍事遠征を行ってハンガリーの統一を進め、1000年12月25日(1001年1月1日とする説もある。)にローマ教皇のシルウェステル2世から授かった冠を用いて、エステルゴムで戴冠式を行った。こうして、正式にハンガリー王国が成立した。

●ラースロー1世(0年6月27日 – 1095年7月29日):1040年、ハンガリー王ベーラ1世とその妃リグザ(ポーランド王ミェシュコ2世の娘)の息子としてポーランドで生まれた。前王で兄であったゲーザ1世の死を受けて、1077年に王位を継承した。ハンガリーの国王(在位:1077年 – 1095年)聖王とも称される。クロアチアやダルマチアにまでハンガリーの勢力を伸張させた。カトリック教会で聖人。

●カールマーン1世(1070年頃 – 1116年2月3日):ゲーザ1世の長男として生まれた。父ゲーザが1077年4月に死んだ後、「王の息子より年上である王家の年長者が後継となる」というハンガリーの伝統にのっとって、ゲーザの弟ラースロー1世が即位した。カールマーンと弟アールモシュは叔父の宮廷で育てられた。 ハンガリー王(在位:1095年 – 1116年)、およびクロアチア王(在位:1097/1102年 – 1116年)。

●アンドラーシュ2世(1177年 – 1235年9月21日):ハンガリー王ベーラ3世とアグネスの次子として誕生する。1182年にベーラ3世の意向によってアンドラーシュの兄イムレがハンガリーの若王の戴冠を受け、その時はアンドラーシュが王位を継ぐ可能性は低かった。 ハンガリー王国アールパード朝の国王(在位1205年 – 1235年)。ハンガリー王の他にクロアチア王位も兼ねていた(在位1205年 – 1235年)。兄イムレ1世と甥ラースロー3世の死後にハンガリー王位を継承し、支持者を獲得するために王国の領土を所領として分け与えた。1222年に国内の貴族に特権を認める金印勅書を発布、1231年には聖職者にとって有利な条項を金印勅書に追加した。

●ベーラ4世(1206年11月29日 – 1270年5月3日):1206年11月29日に、ハンガリー王アンドラーシュ2世とゲルトルードの長子として生まれる。ローマ教皇インノケンティウス3世の希望により、ベーラ4世の誕生前にハンガリー王国の聖職者たちは彼をハンガリー王位の後継者として承認する宣言を行った。 ハンガリー王国アールパード朝の国王(在位:1235年 – 1270年)。祖父ベーラ3世に倣った王権の強化と、1241年のモンゴル軍の侵入によって荒廃したハンガリーの復興事業により、ハンガリー王の中でも有名な人物の一人である。

●カーロイ(1世1288年 – 1342年7月16日):父カルロ・マルテッロはアールパード朝のハンガリー王イシュトヴァーン5世の娘マーリアを母としており、マーリアの弟ラースロー4世が1290年に暗殺された際には自身の王位継承を主張してアンドラーシュ3世の即位を認めず、教皇ニコラウス4世の承認も受けて名目上のハンガリー王を称していたが、アンドラーシュに先立って1295年に早世した。 ハンガリー王(在位:1308年 – 1342年)。アンジュー=シチリア家出身で、父はナポリ王子カルロ・マルテッロ。ナポリ王カルロ2世の孫に当たる。イタリア名はカルロ・ロベルト・ダンジョ。

●ラヨシュ1世 (1326年3月5日 – 1382年9月10日):アンジュー家のハンガリー王(在位:1342年 – 1382年)、ポーランド王(ハンガリー人のルドヴィク1世, 在位:1370年 – 1382年)。父はカーロイ1世。大ラヨシュとも呼ばれる。 1342年、父の後を継いで即位したラヨシュ1世は、勢力拡大のために積極的な対外政策を行なった。まず、ヴェネツィア共和国と交戦してクロアチアとダルマチアを支配下に収めた。次いで1370年、ポーランド王カジミェシュ3世が嗣子無くして死去すると、母エルジェーベトがその姉に当たるという縁故からポーランド王位も継承することとなる。

 

右側

画像左から

●フニャディ・ヤーノシュ-(- 1456年8月11日):現在のルーマニア出身のハンガリーの貴族。フニャディは次男のマーチャーシュ1世とともにハンガリーの国民的英雄とみなされ、オスマン帝国の脅威からの守護者として称賛されている。非マジャル人の出身であるフニャディはハンガリー的な精神とハンガリー貴族の思考を受容することに努めたが、自身の出自を忘れ去ることは無かった。ハンガリーの大貴族たちから敵視され、時には王からも恐れられた。しかし、配下の兵士とハンガリーの中小貴族、そして民衆からは敬愛され、オスマン帝国の皇帝(スルターン)はフニャディに対してハンガリー王以上に敬意を払っていた。ハンガリーが外圧と内訌に苦しみ、国王が名目だけの存在となる中でフニャディは苦難に立ち向かい、死後も民族的英雄として称賛された[14]。「ハンガリー第二の国歌」といわれる「訓辞」(Szózat)の歌詞には、フニャディの名前が現れる。

●マーチャーシュ1世 (1443年2月23日 – 1490年4月6日):ハンガリー王(在位:1458年 – 1490年[1])。ボヘミア王(対立王)でもあった(在位:1469年 – 1490年)。「正義王」の異名がある。フニャディ・マーチャーシュ、マティアス・コルヴィヌスとも呼ばれる。コルヴィヌスあるいはコルウィヌスは「烏の人」を意味するラテン語名で、フニャディ家の烏(カラス)の紋章に由来し、それはヴァイダフニャド城の別名に由来する。1479年にはオーストリア大公国の支配権も得る。 王軍を常備軍として設置し、中央集権化を進めて、中世ハンガリーの最盛期を築いた。ルネサンス文化を奨励したことでも知られる。ハンガリーの1000フォリント紙幣には、マーチャーシュの肖像が印刷されている。

●ボチュカイ・イシュトヴァーン(1557年1月1日 – 1606年12月29日):トランシルヴァニア出身のハンガリー人(マジャル人)貴族。1604年から1606年まで王領ハンガリー(現在のスロバキア東部)で続き、モラヴィアやオーストリアにまで波及した反ハプスブルク家蜂起の指導者となり、トランシルヴァニア公(在位:1605年 – 1606年)も務めた。

●ベトレン・ガーボル(1580年 – 1629年11月15日):トランシルヴァニア公(在位:1613年 – 1629年)、オポーレ公(在位:1622年 – 1625年)、そして王領ハンガリーにおける反ハプスブルク家反乱の指導者。三十年戦争にも参加し、積極的にプロテスタント陣営を支援した。

●テケリ・イムレ( 1657年4月25日 – 1705年9月13日):ハンガリー人の政治家、反ハプスブルク蜂起の指導者、ケーシュマールク伯爵、トランシルヴァニア公(在位:1690年)。

●ラーコーツィ・フェレンツ2世(1676年3月27日 – 1735年4月8日):ハンガリーの大貴族で、反ハプスブルク独立戦争の指導者。ハンガリー王国等族連盟の統治首長(fejedelem、在位:1705年 – 1711年)、独立国家トランシルヴァニア公国の君主を務めた。ハンガリー王国では最も富裕な領主であり、1694年以後はシャーロシュ伯爵の称号を帯びた。金羊毛騎士団の騎士でもあった。現在、ハンガリーの国民的英雄とされている。

●コシュート・ラヨシュ(1802年9月19日 – 1894年3月20日):19世紀ハンガリー王国の政治家、革命家。

Source: Wikipedia

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■ 所在地

Budapest, Hősök tere, 1146 ハンガリー